2016年3月11日 東日本大震災から5年
3月11日の自分
2011年3月11日私はホームセンターで少しの買い物にブラブラ何だか少し周りが騒がしいな~と思いきや館内放送で『地震の揺れに注意の案内』カートを引きずる私は鈍感なのか揺れに気づかず、『なーんだ地震があったんだ』軽い気持ちで歩いておりました。まさかその日をきっかけに自分が震災で人生が変わってしまうとも思ってもいませんでした。
3月13日
3月13日高校時代の友達と焼肉を食べながら津波の影響で今後の自分たちの事を考えながら話していました。建築も自動車関係も資材不足で工事が出来なくなる事を不安になり、その時に友達が『しばらく工事が動かないならお金も必要になるぞ』『銀行行けば直ぐ貸してくれると思うよ』と・・・私もito-proを株式会社へと起業し1年が経とうとしている中、借金に抵抗があり・・・その夜、一人で悩みました。
3月14日
決断の早い私は、翌日に銀行へ相談へ『お金を貸して欲しい500万程・・・』
銀行の担当営業マンの口車にのってしまい1000万を借りる手続きに入ってしまいました。私は自分の行動の早さと直ぐ口車に乗る自分に笑ってしまいました。
借りてしまった1000万の使い道
正直悩みました。僕は借りてしまった1000万を何に使おうか?今思えば使わなくて良かったのです。震災後の愛知では仕事は動きが悪く耐える為の資金に充てれば良いのですが・・・使い道を考え
答えが宮城県へ行こうと 石巻市へ行こうと
母親が石巻市出身で実際に震災直後に叔母が母親と電話で話して『今。津波くるから逃げてる』の電話から4日間連絡が途絶え、母親は4日間私の事務所に入り込みグーグルマップで叔母の居た地点が海からどの位の距離か津波にのみ込まれていないかを涙を浮かべながら叔母からの電話を待って、毎日メールを打っておりました。
5日目に叔母の娘からの電話が鳴り、皆生きているとの連絡です。母親もホッとした様だが・・・その後が大変だった様でした。食べ物が届かない
私は叔母達に食べ物を届け、そのまま宮城に残ろうと決めました。愛知県にいたって、じっとしていても何も楽しくありません。どうせなら宮城に行き何かやろうと
3月29日
インターネットで知り合った、年も5つ上の京都の方と新幹線の中で待ち合わせをし初めましての挨拶から始まり・・・
東京からバスで宮城県仙台市迄行き、仙台市ではネットで知り合った。滋賀県の方がガソリンを沢山持参してプリウスでかけつけて迎えに来てくれました。
石巻市への到着は夕方となりました。宿も無い為に3人で私の叔母の家に泊まり、明日からの私達の支援活動について話し込み・・・気づけば朝方です。
石巻市2日目
2日目の石巻市はとても忙しい一日となりました。
行動力のある3人は市役所へ行き、手伝える事を探しに行ったが相手にされず・・・
『それどころじゃ無い』って感じで・・・
1人が『しょうがない不動産屋へ行こう』『3人で建物借りようか』『拠点を』
全員一致で借りてしまう事に・・・
3日目の夕方には被災した事務所を借りてしまったのです。1000万の使い道の一つとなりました。
4月15日
一週間程の宮城県での下準備をして愛知に戻り4月の15日に再び宮城県へと走り出しました。その時既に宮城県で活動用の中古車 ディーゼル車を購入しておりました。
宮城県はガソリン不足でもディーゼルは手に入りやすい為にディーゼル車の購入でした。
石巻市は津波が酷かった為、道路もぐちゃぐちゃです。何度もパンクです。
キツイ、汚い、ツライ、寒い 石巻支援活動
4月の18日頃からは被災者のニーズが増えて
泥かき、道路のガレキ出し、荷物の運搬等の沢山の作業が・・・毎日どろどろになり
お風呂も、週一日しか入れません。石巻で知り合った他県の仲間が増え、朝から作業着で泥まみれ、風呂も入れなく、夜は鍋に適当な物を突っ込み食べて、酒で体を暖め朝を迎えるが4月でも夜中は寒すぎて眠れません。眠れなければ酒を飲み、朝は酒が残っているが何とか活動・・・の繰り返し
気づけば仲間が家族の様に感じる時もありました。
4月の末までは味わった事の無いような・・・生活
気がつくと相方の様な友が出来ており、共に生活をして寝床が無い時は2人で車の中で寝たり、本当にいい仲間にめぐり合ったが過去に味わった事の無い生活です。
知り合ったばかりの同じ歳の男と朝から一緒に活動し、一緒に車ででかけ、食べる時も寝る時も酒飲む時も常に一緒の生活をしていました。
風呂だって1週間に一度、少し車で走り道の駅の温泉へ・・・それ以外は水道でタオル濡らして体を拭く、寒い石巻市で水で頭を洗う位でした。
足も体も臭いが気にならなくなります。町もヘドロの匂い、異臭が凄いからです。
毎日涙が出てしまいます。
被災者の方々の奥さんが・・・旦那さんが・・・子供が・・・友達が・・・
毎日無くなってしまった方々のエピソードを聞いてしまいます。一日に何度もです。普段涙は流さない自分が声を震わせて泣いてしまうのです。支援活動に涙はつき物です。
4月の末に知り合った 石巻市の地元の名物親父が私をひきつけた。
4月の末頃 あるボランティア団体のリーダーが私に相談をもちかけた
石巻市大街道に名物親父を助けて欲しいと・・・
名物親父→Nさん Nさんは地元でも情にも厚く信頼されているが怒ると地元一怖い親父、
Nさんは目の前で津波に奥さん、お袋さん、5歳の孫の3人を亡くし、本人も逃げ遅れたが天井裏の高さと水位の高さの隙間10cmで呼吸をして助かった人です。
また、娘のMさんと孫のFちゃんはNさんの目の前の自宅屋根の上に上り何とか助かった。
Nさんは行政の支援が遅くて苛立ち、自分で行動をしてしまいました。
ガレキだらけの道路を自分で重機を運び片付けてしまったのです。
毎朝5時、6時から夕方迄、一人で道路のガレキをどかし車が通れる道を作ってしまいました。自衛隊からも一目置かれる存在になり、ボランティア団体を仕切る程の親分肌
のこのこと地元住民が避難所から戻ってくると地元住民を叱る。『今まで何やっとた!』
『俺が綺麗にするまで待ってたか!?』と・・・非常に怖いので地元住民は謝るのみ
ボランティア団体から頼まれた件はNさんが所有している屋根まで波に浸かった建物を直して欲しい 私を大工と知ったボランティア団体のリーダーが頼んできました。
Nさんが被災した建物を修理した理由
Nさんは震災直後から自分の町を綺麗にする事に専念し、毎日朝早くから活動を休まずやっていました。Nさんが震災直後に避難所に行った時に避難所の中で沢山の子供たちまで泣いているのをみてしまいました。『こんなところで寝かして可愛そう』『被災はしたが俺の建物を修理して寝かせてやりたい』と思い大工さんを探しましたが地元の大工は金儲けで忙しく・・・大被災した建物をコツコツ修理している時間は無く地元の大工さんじゃ無理と踏んでボランティア団体に相談したらしく・・・たまたま私にたどり着いてしまいました。
Nさんに直接会った時にNさんが家族を目の前で失った話を聞かされました。
涙がとまりません。自分の持っている借家のいくつかの建物を修理して『子供の住む町にしたい』っていっている顔は真剣で・・・心が打たれた自分は
『大工は僕しかいませんが 僕で良ければ付き合います』と言ってしまった事が弊社、私と社員で1年9ヶ月の石巻市生活の始まりとなりました。
Nさんは顔も怖いし、怒ると本当に怖い・・・だけど義理と人情に厚く、気づくと父親の様な存在でした。僕等ボランティアの団体をかわいがり・・・気を使い・・・本当にNさんのおかげで沢山の思い出が出来ました。
Nさんの娘のMさんはとても優しく、明るいお姉さん。津波で5歳の子供を亡くしてしまったのに、ボランティアの僕等に毎日、朝も昼も夜もご飯を出してくれました。
ボランティアも毎日やると気持ちも下がります。が娘のMさんは明るく楽しく僕らを振る舞い・・・僕等ボランティアは被災者に救われておりました。Mさんの事は今でも東北の姉だと思っています。僕の家族です。
助けてくれた クリスチャン 東京バプテスト教会
ボランティアではいつまでも続きません。気が付くとお金が・・・1000万も借りたのに
無くなる物です。物資を車いっぱい詰め込み運んだり・・・ガソリン、食費等
一文無しの様な人材も受け入れ手伝ってもらいご飯は食べさせて・・・お金は無くなります。 宮城だけでなく愛知にも社員もいました。社員は僕がいないと仕事にも困っていたようです。でも給料は出てしまいます。
キツくなってきた頃に東京のクリスチャンが・・・まさしく神かと思いました。シスターの様な存在のドロシー洋子さん(名前を出してすみません)彼女が私達ボランティアに目を付けて・・・支援を教会に提案してくれたのです。
彼らにも生活があるから・・・まだ沢山修理してもらいたい建物があるからと
多少なりとも生活費の出るようにと牧師に話をしてくれました。おかげで僕らは生き延びる事につながったようでした。
一つ困ると誰かが助けてくれて、元気が無くなると誰かが盛り上げてくれて
本当に沢山の方々に助けられた支援活動
人間は一人では生きられません。実感しました。
良い事をすると返ってきます。悪いことをしても返ってきます。
震災から一年が過ぎる頃、愛知の友達、同級生、業者等から沢山の電話や問い合わせです。家を建てて欲しい。。依頼です。
経験した事の無い位の依頼の数・・・
びっくりです。。昔の知り合い、友達、紹介の方々から沢山の新築住宅の依頼がわんさかと・・・不思議ですね。気がつくと一気に新築8件、それ以外にも沢山のリフォームが・・・社員では対応が出来ないと踏んで社員に相談をもちかけました。
社員は『俺は仕事なら何処にでもいくよ』の一言・・・僕も『じゃ、先ず来週来て』と
あまりの突然さに社員はびっくりでしたが・・・すんなりと宮城へと足を運び
気が付くと私と交代で社員が9ヶ月間 ito-proは支援活動を思いっきり東北の地で頑張る事ができました。
1年9ヵ月間 費やすと別れは寂しいです。仲間と揃って涙を流しお別れ会。
被災者の方々には、逆に私達が助けられ、元気を与えた様でもらってしまい・・・
被災者の方々と共に復興を願い活動できたんだと満足です。
5年前の今日が無ければ弊社ito-proはどうなっていたのか・・・
私にも判りません。が確実に進化したきっかけでもあります。
東北の優しい温かい人たちに出会えて、人間の本質を見ることが出来た様なきがします。若いパワーで立ち向かう事が出来ましたが5年後に同じ出来事があったら同じ事をする自信がありませんが何らか支援を考えたいとも思っております。
2011.3.11 東日本大震災
被災者の方々には心よりご冥福をお祈りします。